私は、被写体として身を乗り出しました。
唯、それには多くのやり方がありました。私に合うやり方では、より多くのユーザーに認知されないのです。
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私だけでも、色々な写真があります。Twitter上でも確認が出来るのです。
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あやさんのカメラスケッチ
私は、写真自体に話す事を拒みました。しかし、私を使ってくれたアーティストの方達の内、感銘を持ってくれた方は、自ら語る様に促してくれたのです。
私の存在する場所には、フロンティアが無かったのですが、(誰かのお古)それを塗り替える事に多くの貢献をして来ました。私は、私の知らない間に成し得ていたのです。
これは歓喜、感謝と照れた心、アーティスト達の為に、成長した証。
停滞を拒み、生きる話を好んだ成果。私の為に、しかし、無粋にも努力を踏み躙る人や、否定する人も居ました。
それらを一掃し、自身からも描き消した結果の平安は、髑髏を洗った夢を見ている時の感覚(浄化、霊的なライトノヴェル)
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私が写る場合、多くは憑依的です。
それが出来なければ、その世界で生きる資格はどこにも無いのです。まいた種を育てるのに、どうして愛情が要らないのでしょう。望まない結婚をするのと、折った木を持つことは同じ苦労ですか?全ては完璧でなくては成りません。
それを意識した時、初めてエチュードが奏でられるのです。全ては、撮影日のために。
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処女作と、▅▅▅私は、多くを壊しました。多くの人はこれを恐れるべきです。しかし、愚かにも私はそうしたのです。そうでなければ、私はもう居なかったでしょう。
罪を犯した私に残された物は有りません。今までを抜け出し、新たに生まれ変わるしかないのです。
しかし、愚かにも身も心も醜いもの達が、未だに跳梁跋扈している事実もあります。これをクレンジングしない事に、何の疑問も持たないことが、本来有り得ましょうか?
私は、そうならない為に、全てを捨て今一度、違うものとして此処に来れたのですが、やはり煩わしさは消えないものです。